偏食観劇屋

色々見たい、偏ったエンタメファン

パレード

取っていた公演がキャストのコロナ感染により中止となりどうなることかと思ったが、見に行くことができてよかった。

初演のショックから、私もいろんな物を見て世界にも色んなことが起きて、受け止め方も変わったと思うが、演出の森さんも人から言われたりで思うところがあったようで、より身近なものに感じた。

その点において初演のようなショックはもはや感じず(もちろんストーリーを知ってるからというのもあるが)、イヤだなという感情がずっとあった。それにしてもこんなストーリーなのに曲は確かにパレードだったりして、だからエンタメとして成立してるのかなと思った。ビューティフルゲームは曲も鬱々としてて辛かったから。ただパレードの楽曲も、メロディは美しいのにオケが不協和音の不吉な音を出してるナンバーがいくつかあって、しっかりと居心地の悪さ、不穏さを伝えてくる。歌いにくそうだなぁと思う。


最初にこんなだったっけ?と違和感があったのは逮捕された直後のレオの看守?への態度。むちゃくちゃ偉そうに命令してて、北部のお高く止まったユダヤ人という、感じの悪さが際立ってた。細かいところは覚えてないし、私が忘れてるだけなのかなと思ったがパンフレットを読んで意図的だとわかった。

私刑のシーンも、レオの揺るがない意思に無罪だと確信する人や、後ろを向いてレオを見れない人、南部の彼らが決して心のない悪魔などではないことを見せている。でも結局そんな人たちも止めることが出来ない。

森さんは今回、複雑さを単純化せずそのまま見せたそうだが、黒人の清掃員やメイドの立場も、より複雑さと深みを感じた。サカケンのジムコンリーのプリズンブルース(そんなタイトルではない)はめちゃくちゃにかっこいいのだけど、カッコつけて茶化してても、嘘の代償みたいな懲役も、決して悪くない交換条件なのだ。そういうことが前より伝わってきたし受信できた。


ルシールが事件の後、南部に残ると決めた時の感情は、恨みつらみというよりは、彼らにこのことを忘れさせないという強い意思があるように思った。

私刑の時にためらった人がいるとか、やめようとした人がいることは知らなかったかもしれないけど、嘘をついた人達は正しくなかったことを知っている。それを忘れてもらっては困る。真っ白なドレスで祝う彼らの中で黒の喪服のルシールは目立つ。目につく。気になる。無視しようとしてもできない。


割と冒頭でNYから移住してきたユダヤ人、というフレーズにリーマントリロジーを思い出した。彼らはNYに着いてすぐ南部に移動したのだけど。

あれはまだ奴隷制度がある時代、つまりこのストーリーより前で、直接奴隷を使うわけでもなく、でも奴隷制度をある意味利用して成り上がったユダヤ人な訳で、鼻につく存在として認識されていたのかなと思う。


そういえばレオは妻に対しても、つまり女性に対して自分より低く見ていて、後にルシールの大活躍により反省して見直すのだけど、差別される側ですら誰かを差別してるという構造がある。


森さんは初演の時に差別というものがわかってないと、見に来たある方に言われたそうで、今回演出を変えたそうなのだが、単純にブラックフェイスをやめたこともそうだし、善と悪のような単純明快なキャラクター設定にしてないところにも変化を感じた。

私にしたって、例えばワールドワイドに、あるいはSNSには決して書かないけど、ここの国の人ってこうだよね、とか差別に繋がるかもしれない定義みたいな物を持ってて、それは偏見かもしれないし、ネガティブな印象なら差別に繋がりかねない。

そういう感情が自分の中にもあるということを、南部に残ると決めたルシールのように、無視できないシミのように棘のように心の中に残るような舞台だった。